コラム:どうして親になれるのか

  • 2025/10/16
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“親ガチャ”

近年耳にすることが増えた”親ガチャ”。生物学上、親の都合で子どもはこの世に生を得ます。もちろん、そこに子の意思は介在することはなく、親も子もお互いを選ぶことはできません。痛烈な事実の言い回しに、耳にした当時は「自分なんかでは親になんて一生なれない」と、息が詰まる思いであったことを覚えています。

同時に、自身の将来を想像もしました。仮に家庭を築き、子どもを生み「責任をもって育てる!親ガチャで外れだったといわせない!」とまじめに取り組もうとする姿が浮かびました。まずは衣食住、習い事や学校選び、それらに伴う金銭的なシミュレーションを繰り返し、子どもの障害の有無や家族の大病、災害や事故に見舞われたらどうするか。はじめこそお花畑を想像するのに、気づけばリスクヘッジばかりを想像し、お金はかさみ「自分には無理だ」と帰結することの繰り返し。どうして親になれるのか。当時の私は心底思い悩み、結婚から逃げてしまったこともある20代でした。しかし30歳になり、友人の結婚式に参列することも20回に及び、友人の子どもの数も追えなくなってきた今、友人たちの姿から学ぶことができました。

 

「大人だな」

考えてみれば”親ガチャ”の通り、一定レベル操作できない領域があり、子育ては完璧ではないのだから、精一杯考えて、頑張って、なんとかひとり、ふたり、さんにん…子どもを育てあげようとする、その姿は誰に否定されるものでもありません。背伸びでもなく、無策でもなく、ただその時が来た時に覚悟を決めた姿さえあれば、内情がどんなに悲惨で泥臭くとも、美しく、勇ましく、かっこいいのだと今は思います。

 

誰もが”努めて”親になる

たとえ、いわゆる順番が違ったとしても”子育てにおける”大事ではありません。腹を括って、努めて親になることができたのなら、それで良いのではないかと思うのです。

親が死にゆく時に「親ガチャは当たりだったか?」なんて聞く必要がないのです。「色々思うところもあるだろうが、これが精一杯だった。あとは楽しく生きてくれ」とメッセージを残し、もしも子どもから「お疲れ様でした、いろいろありがとね。」と言ってもらえたら本望ではないかと、私は思います。