第1章 第1節 「教育とは、未来に希望を見出す自立した大人に育てる行為」

  • 2025/10/13
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教育は”未来”への行為

「あぁ、もういい!わたしがやる!」実際に言ったことはなくとも、一度や二度、いや数えきれないほど思ったことがあるのは私だけではないでしょう。

もしも目の前の新入社員が、会議の議事録をとる業務が金輪際ないのであれば。もしも明日以降、子どもが靴ひもを結ぶことがないのなら。大人も子どもも関係なく、課題に対しては「その場でできる誰かがやればよい」のです。将来においても不必要なことならば、教育機会としての優先度は下がります。別の業務ほかの教育機会を用意する方が好ましいでしょう。しかし若者や子どもが、その課題をできないままでいることや、やったことがない、知らないことで、その先の未来を生き抜くチカラが削がれてしまうのなら、教育の機会を取り上げるべきではありません。文字通り「その子が未来で生き抜くために」必要です。教育は”今”ではなく”未来”に向けた行為です。

絶望に向かって人は歩めない

明るい廊下を歩くことはもちろん簡単です。暗い夜道でも誰かと一緒なら楽しいものです。しかし、お取引先様に対して大失態を犯してしまった時、サァーと顔が青ざめたあの日を、私たちは忘れることができません。また子どもであれば、お皿を落として割ってしまったその瞬間、ぴしゃりと水を打つように動きが止まります。置かれた状況に混乱し、泣き出すこともあるでしょう。しかし、時間が経つにつれ冷静さを取り戻します。大人であれば、膝が震えながらでもお取引先様へ赴きます。子どもであれば、割ってしまったことの言い訳探しや、正直に白状すること、あるいは「僕は知らない」などと逃避行動をとることもあるかもしれません。いずれであっても”やってしまった”絶望の中に居続けることは難しく、希望を探します。

ケースは変わって、甲子園を目指す高校生達はライバル校の動向が分からずとも、甲子園に何があるか分からずとも、日々の練習に励みます。甲子園に行き着いた球児たちもまた”明日負けるかもしれない”夜を幾度も越えなければなりません。しかし、その中でも希望を見出し、自らやチームを奮い立たせては、心を落ち着けて、眠りにつき、戦いに臨むことでしょう。

一方、家庭環境も厳しく夜の世界で生きる子ども達はシンナーや覚せい剤、犯罪に近しいところで生活を送りながらも、やはり希望を探しています(「夜回り先生」より)。

大人も子どもも関係なく、絶望と隣り合わせの環境で生きることは難しいです。教育は”未来の希望”に向かうものでなくてはなりません。

“自立した大人”に

子どもの将来における最悪のシナリオについて、ひとり一人に聞いて回ったことがあります。働かない、親族に頼り切る、人様に迷惑をかける、犯罪に手を染めるなど様々な表現がありました。しかし整理してみると「自立」が一大テーマになるといえそうです。厚労省では「自立」は次のように記されていました。

他の援助を受けず、自分の力で身を立てること。

しかし、現代社会でほかの援助を受けないことは可能でしょうか。いいえ、生活のためのインフラを活用している時点で他の援助を受けています。本書ではつぶさに語ることは避けますが、一人の力だけで生きていくことは極めて稀なケースでしょう。自立を考える時、大切なのは後半の「自分の力で身を立てる」にあります。他人との関わりをもつ中でも、”自分がある(=自分はなくならない)”こと感覚を持てることや、物事に対して他責的に逃げずに向き合えることが自立といえます。

また「大人」は意外にも広義を指します。発育発達の観点から定められることもあれば、こども料金(小学生まで)の対義語、成人の同義語として扱われることもあります。ここでは発育発達の観点から子どもではない、あるいは社会的に責任が発生する成人以降を指すこととします。

成長した先で“見た目は大人、頭脳は子ども”では困ってしまいます。教育とは自らの人生に責任を持てる”自立した大人に育つための援助(行為)”です。

親のエゴと子どもの生存本能

子どもが世に生を得るのは親の都合です。その後、子どもは生存本能が組み込まれた形で育ちます。極論、生存に必要な環境を確保しながら寝食を繰り返すことで、ある程度は放っておいても勝手に育つでしょう。しかし、勝手に「自立した人(自分の人生に責任を持つ人)」に育つとは限りません。一方、人間の成長を完璧にコントロールすることもかないません。つまり、成長を自然発生的な放置や身勝手に子自身に託すのは無責任な博打ですが、成長を支配的に操作・命令することも不可能です。そのため、教育とはそれらの”バランスをとる形での支援”という”行為”であるといえます。

教育とは

本節のタイトルの通り「未来に希望を見出す自立した大人に育てる行為」と私は考えます。