第3章 可能性を拡げ残す – 第1節 「将来の”夢”」から考える教育
わたしの「しょうらいのゆめ」
私の幼稚園の卒園アルバムを開くといくつか質問コーナーが設けられていました。「たいせつなものは?」の問いに対して友達の多くは「(仮面ライダーの)変身ベルト」や「ぬいぐるみ」と回答するのに、私は”みんなのいのち”と書いてしまう、ちょっとイケ好かない子どもでした。
しかし「しょうらいのゆめ」については”サッカーせんしゅ”と答えておりました。ちなみに今日まで野球の経験しかなく、親に尋ねても「テレビで見たわけでもなく、隣のお友達のマネしたわけでもなく、なぜサッカーと書いたのかは分からなかった」との談でした。卒園児として大クセのある子どもでしたが、「子どもの脳内に広がる思考は大人にも本人にもわからないところが多い」点では、皆様と変わらないはずだと一抹の希望を抱いております。
子どもの”ゆめ”と、大人の”夢”
「将来の夢はなんですか?」と、子どもに聞くのをためらう大人は少なく、その返答はどんな内容であれ、否定する人はほとんどいないでしょう。しかし同じ問いを、大人にすることはどうしてあんなにもはばかられるのでしょうか。そして、どうして答える時にあんなにもドキリとしてしまうのでしょうか。人間の成長の過程に秘密があるのかもしれません。
“夢”と期待値
やはり、子どもの話す夢を否定する大人はほとんどいません。なぜなら「子どもの話すこと」だからです。例えば、幼児は空想と現実の境目があいまいです(空を飛べると誤認、ごっこ遊びを好む、など)。それを理解している大人は、どんな話もニコニコと受け止めます。また児童であれば、既知の世界の中で自身に近しいものに自らを投影します(Youtuberや親の仕事など)。世界の広がりとともに変化していくことをわかっている大人は、それもまたニコニコと受け止めながら、時に習い事として支援するなどします。
“夢”と責任
しかし、子どもが高校生・大学生になる頃に「バンドマンになる」「芸人になる」「Youtuberになる」と聞いた途端、大人は一瞬たじろぎます。実子でなくても、その子と関係の近い大人ほど急激に不安感を覚えます。「生活はどうするのか、どうやって稼ぐのか、いつまで夢を追うのか、ダメだったときはどうするのか…」子どもからしたら足を引っ張るような言葉ばかりが続きます。”どっちが相手の話を聞いていないのか”と争うことになるでしょう。
しかし、大人の質問の本質は”覚悟”や”責任”への問いかけです。人生をかけるに足る夢なのか、周囲への影響を考えているのか、子ども自身の将来を想い続けていたからこそ、大切な存在だからこそ、「未来に希望を見出す自立した大人」として”どうするつもりだ”と問いたくなるのです。
将来の夢の正体
夢とは、自らの既知の世界と、未来の自分像との接続点なのだとしたら、夢は可変的であり、万人に存在する普遍的なものといえます。そのため「夢がない」と口にする若者は、その接続点の存在を認めるに至っていないか、既知の世界が狭いということになります。つまり(自己分析などの)思考を深めることや、未知への挑戦を重ねる中で、夢は大なり小なり必ず見つかります。
将来の夢と心理学
ここで自己正当化バイアスと認知的不協和理論についてご紹介します。
自己正当化バイアスとは社会心理学用語で、「自分にとって都合の悪い情報を無視することや、過小評価する」認知的特性のことです。
認知的不協和理論も社会心理学用語で、「自身の認知と別の矛盾する認知を抱えた状態に不快感を覚え、矛盾する認知の定義を変更することや過小評価することで不快感を解消する」ことを指します。
そのため、人間は自身の納得のいかない今に直面したとしても、未来の自分はそれを無視、曲解、過小評価するようになります。あるいは自身の将来像を描く際にもその心理は働き、都合の悪い未来を直視しづらいように、人間は設計されています。つまり人生とは、本人の思い込みや勘違いによって認知される、あやふやなもので、”将来の夢”とは、一度きりの人生の”ゲーム設定”のようなものと解釈することもできます。
ゴッホの生き様
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)は世界でもっとも有名な画家のひとりです。彼は37年の生涯の内、創作活動に費やしたのはわずか10年間で、約2100点を制作しますが、自死する直前の2年間で約860点を制作していました。今でこそ、フィンセントの短い生涯の内で、揺れ動く感情のふり幅や残した作品に、人々は心を奪われ続けていますが、存命時は画家として全く成功してはいませんでした。また精神的にも病んでいる期間が長く、プロテスタント伝道師期にも自罰的な行為が目立ちます。晩年には自身の耳を自らそぎ落としていたことも知られています。
そんな自立した生活を送れていなかった彼を、経済的にも精神的にも支えていたのは実弟のテオドルス・ファン・ゴッホ(通称:テオ)でした。頻繁に交わされた手紙からは、時折フィンセントとのコミュニケーションが難航する様子がうかがえながらも、大半は彼への称賛や励ましで満たされています。彼の数少ない理解者でもあったテオは、フィンセントの自死から半年後、2歳になる息子と妻を残して病没しています。
夢を支える側の苦労
テオはフィンセントの才能に惹かれ、感情に共感し、支援していました。実弟としてのよしみだけで傍に居続けたわけではなく、きっと誇りに思っていたことでしょう。その意味では、たとえ経済的な価値が生めていなかったとしても、決して悪ではありません。人に共感された夢であれば応援してもらえる可能性は十分にあります。現代でいえばクラウドファンディングやヒッチハイクにも近しい要素があります。したがって当事者間で認められていたのなら、他人がとやかく言うことではないともいえます。
しかし、人が他者とのかかわりの中で生きる以上、周囲に影響は及ぼしています。とりわけ、フィンセントの場合、病気・ケガ・事件・お金など様々な場面で、テオをはじめとする近親者や近くにいた人々に甚大な影響を及ぼし、その影響は良いことばかりではなかったと推察します。また、フィンセントの作品が評価を得たのは、兄弟の死後、テオの妻の尽力によるものだったため、存命中に報われることも少なかったでしょう。テオの抱えた苦労は想像を絶するものです。
「将来の夢」から考える教育
夢を持ってほしい、と願う気持ちは重々理解できますが、それは大人の不安解消や過大な期待にすぎません。本筋なのは、子どもが未来に希望を見出せる大人になることであり、子どもが自立して責任の持てる大人になることです。そのため「夢を持て」と口にするのではなく、夢に責任をもって臨めるように支援することが望ましいです。
幼少期から、多様な経験(体験)を積ませつつ、成長に応じて、子どもの意欲をいたずらに削ぐことのないように配慮しながら、マネーリテラシーやリスクヘッジについても一緒に考えてみましょう。
もしも、「プロスポーツ選手になりたい」と子どもが言い出したのならば、”プロスポーツ選手はどういう職業”なのか、今現在だけでなく将来的にどのくらい稼げる見込みがあるのか、プロスポーツ選手になれる確率はどのくらいか、(最近ではこの表現は為されませんが)セカンドキャリアはどうするのかといったところまで、リアリティをもって一緒に考えてあげることで、自責的に将来を考える支援となります。