第3節 文化分野より「哲学」から考える教育
時の哲学者は時代のアンチテーゼを語る(常識に対して「本当にそうかな?」と疑い続ける)存在である性質上、異端児扱いされることも少なくないです。その点は、死後に評価される芸術家とも似たものを感じます。時代の流れを堰き止める、あるいは逆行する思考のもと、生き抜くことは難しいですが、時代の流れを理解し”分岐”させることは一案です。
現代でいえば、新しい科学技術をハナから忌み嫌うのではなく、積極的に理解に励み、取り入れるべきです。しかし、責任の所在は従来通り人間に置くことが好ましいでしょう。また、民主主義に適する発言力や傾聴力は必要ですが、民主主義が唯一絶対ではないといった考えも持ち合わせておくべきです。激動の資本主義社会において、自ら稼げる力を持つことは大切ですが、お金への価値観も育まなければ身を滅ぼしかねません。ここからは哲学について改めてご紹介しながら、これからの教育について考えを深めます。
哲学とは
希哲学と訳されたことからつけられた学問名で、ソクラテスを起源とする書籍が多いです。世界や社会、幸福、死といった答えのないテーマについて、その時代の常識を「本当にそうかな?」と疑いながら思考した哲人たちの軌跡そのものが”哲学”です。西洋では、数学に代表される論理的思考に基づき、本質を理論的に解明しようとする性質から、科学、政治、宗教の大元であるといった印象も受けます。一方、東洋では「どう在りたいか」という人生の実践、生き方に触れているのが特徴で、教育との親和性がより高い印象を受けます。
科学「アリストテレスとガリレオ=ガリレイ」
「万学の祖」として知られているアリストテレス(B.C.384~B.C.322)は、弁論術、天文学、生物学など多岐にわたる学問に長け”三段論法”の確立も、彼の功績のひとつです。その偉大さは彼の死後にも大きく影響を与え、ガリレオ=ガリレイ(1564年~1642年)が”ピサの斜塔”からボールを落とす実験で示すまで「重いものの方が軽いものよりも速く落ちる」と、約1900年間に渡って信じられてきました。常識を疑うことの難しさと大切さを感じるエピソードです。
政治「ローマ統治」
B.C.753年に建国されたとされる古代ローマではB.C.509年に王が追放されるまで「王制」が敷かれ、その後は不完全な「民主制(貴族民主制)」が始まります。身分闘争、三頭政治、ポエニ戦争を経て、B.C.27年に元老院がオクタヴィアヌスにアウグストゥスの尊称を贈ったことから「帝政ローマ」の歴史が始まります。この帝政ローマ期に、ローマ帝国の最盛期”五賢帝”時代が到来します。皇帝位を巡った血の争いもなく、政局は安定し、領土も最大化しました。しかしその後は、経済不振、隣国からの侵攻が重なり「軍人皇帝」時代、「専制君主制」時代、「東西分割統治」、そして”西ローマ帝国の滅亡”へと時代は流れます。
自国・隣国を問わず戦争や領土の大きさ、異文化の流入などによって環境は変化するため、好ましい政治の形もまた変化します。現代において議会制民主政治は多くの国で行われておりますが、現行のシステムが唯一絶対のものではないことがうかがえます。
宗教「デカルト」
デカルトは「我思う、故に我あり」のフレーズが有名ですが、実はX軸、Y軸を開発した数学者でもあります。デカルトはルターの改革に端を発する宗教改革の約100年後に勃発した「三十年戦争」にも参戦しています。
当時”神は本当に存在するのか”が疑い始められている中、デカルトは「朝目覚めることや食事をとりたいと思うことは、もしかしたら神様から使役されたことなのかもしれないが、そのメッセージを受け取った、受信者たる”私”は(神様ではなく)”私”であるという考えに至った(藤田意訳)」ことから”我思う、故に我あり”のフレーズを残すこととなります。その後は、(神ではなく)個人のことをより深く考えようとする思想が発展し、キルケゴールの実存主義や、ニーチェの超人思考へと時代は流れます。
日本人にとって宗教自体は馴染みの薄いものかもしれませんが、”資本主義”や”お金”は日本人でも信じている概念といえます。これらの価値について、妄信せずに”お金はどのようにして生まれたものなのか”、”稼ぐとはどういうことなのか”、 本当に”多く稼ぐことは是であるのか”といった本質について、子ども達に教えてあげる必要性が、より一層高まっています。
東洋哲学「儒教と道教」
中国・春秋戦国時代に国の役人になることを目指した孔子(こうし)は「徳こそ大切である」とする”徳治主義”を唱えて諸国を行脚しました。しかし、戦乱の世ではこの考え方は受け入れられず、ついには士官先が見つかりませんでした。一方で、彼の弟子は3000人にものぼったとされ、後世に名を残す有名な弟子の中では、性善説(せいぜんせつ)(人がもつ学ぶ意欲を尊重するべきとするエリート教育的思考)を唱える孟子(もうし)や、性悪説(せいあくせつ)(教育水準の底上げをすべく教育システムが大切だとする教育)を唱える荀子(じゅんし)などがいました。徳治主義をもって成長や繁栄、拡大を是とする儒教の考えは、時を経て徳川家康や渋沢栄一、現代にも影響を及ぼしています。
一方、老子(ろうし)は生存自体があやふやで諸説ありますが、孔子の目指した役人の座を自ら降りたと伝わっています。老子が残し、弟子の荘子が伝えたとされる「和光同塵(わこうどうじん)」や「無為(むい)自然(しぜん)」といった短い言葉の数々には”がんばらなくていい”、”あるがままで良い”といったスタンスが感じられます。しかし実は、「大器晩成」や「柔よく剛を制す」も道教の教えです。なにもしなくてよい、自然なままでよいと語る一方で、”晩成”や制す”といった言葉に潜む”最後には勝つ”といったニュアンスが少し残っているところに、単なる世捨て人ではない一面が垣間見えます。
現代でいえば、”FIRE”に代表されるような「いかに速く多くお金を稼ぐか」といった生き方もひとつですが、”ミニマリスト”に代表されるような自然派スローライフな生き方もまたひとつです。
「君たちはどう生きるか」と問われているかの如く、これらのバランスをいかにとるかは、高度な生存戦略といえそうです。
現代の哲学
科学でいえば「科学技術との付き合い方」には考えを巡らせる必要性があります。たしかに宇宙開発も進められるほどの技術革新は止まらず、生活の利便性はこれからも向上していきます。しかし例えば、次のようなケースシーンでは人間の倫理観や道徳観がより一層問われることになるでしょう。
・車の自動運転による交通事故の責任の所在
・人体の複製を目指す「クローン」製造
・義手・義足等の発展後の結果として得られる「身体拡張」
・アンチエイジングの先にある「生命の長期化」
・ロボットに心を持たせることを目指す「サイボーグ」製造
いずれも「人間(生命)とは」という命題の数々であり、科学技術と不可分な問題です。
政治でいえば、議会制民主主義こそ最も発達した手法であると現在は考えられています。しかし時代によって最適解は異なるものであり、実際に現行の手法では決断実行までのスピードの遅さや民意の暴走などデメリットをもはらむものです。今後、例えばAIの発展と議会への導入により、課題に対するクリティカルな提案などが可能となり、決断スピードが向上、議員数は縮小する一方、コストパフォーマンスは著しく向上するような、これまでにない政治の形が実現されるやもしれません。
宗教でいえば資本主義が実しやかに信じられているものと考えられます。儒学的思想とマッチする資本主義ですが、お金は幸せを保証したり、在り方を肯定するものではありません。お金(硬貨、紙幣、仮想通貨)は”価値交換”の利便性を高めた先の姿でしかなく、その価値の本質は”信用”です。そのため経済活動の本質は「信用を生み出せる」「信用を交換できる」人間による行為である点を忘れてはなりません。
科学・政治・宗教・思想は常に哲学的思考(”疑い”のまなざし)で考え続けられなければならないものです。
「哲学」から考える次の時代の教育
今から未来にかけての自分や世界を俯瞰し、見つめ直すチカラが必要です。ここではそのための3つのチカラを挙げます。
①疑うチカラ
前章の「不易流行」の考えを踏まえてもやはり、過去の踏襲に甘んじるだけでは心許ないです。今の常識や文化、科学技術、政治などあらゆる事物について疑いの目を持ち続けることが求められます。
②自身の在り方
世の中の流れや周囲の人の考えとは別に、自身の在り方について、定期的にアップグレードしていくことが大切です。倫理観、道徳観、死生観など答えのない問いだからこそ、個々人が考えを持つべきです。そしてそういった”在り方”は重要なシーンのみならず、ふとした仕草にも滲み出るものです。
③人と繋がるチカラ
資本主義国家たる日本で育つ日本人が疎いとされる金融リテラシーですが、学校(公教育)が社会人の促成栽培機関ではない都合上、家庭教育や私塾などで補う必要があります。また、お金の本質が”信用”にあることから他者と信用・信頼をベースとしたネットワークを築けるかが時代を問わずに求められています。また、議会制民主主義国家たる日本で生きる上で、発言力、傾聴力、交渉(調整)力といったコミュニケーション能力をはじめとする非認知能力(のちほど詳述)は必須です。