第3節 「サポーター目線」
未来を生き抜くのは”あなた”ではない
大前提として、未来を建設し、生き抜くのは”あなた”ではありません。つい、肩に力が入ってしまう責任感の強い大人の気持ちも分かります。しかし、教育を考える時にあなたが”大人”であるのなら(プレーヤーではなく)サポーターとしての目線にシフトするのが好ましいです。
歴史に学ぶ
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」これは鉄血宰相、ビスマルクの格言とされています。原文を直訳すると次のようになります。
愚か者だけが自分の経験から学ぶと信じている。
私なら他者の経験から学び、最初から自分が失敗しないようにする。
ここでいう”歴史”とは日本史や世界史のような壮大なスケールのものだけではなく、身近な他者の経験をも指しているニュアンスが感じ取れます。詳細は第2章に譲りますが、経験だけに基づいた「ガラケーは不滅、スマホは不要説」を妄信することが、いかに危ういかを思い返してみれば納得できます。教育においても同様で、自身の経験則にだけ頼るのでは危険です。サポーターとして、子どもには(仮に”歴史”的根拠があったとしても)結論や正しさを押し付けるのではなく、あくまで選択肢を提示するに留め、子ども自身に決断する経験を積ませてあげることの方が、教育(未来を建設する担い手の育成)であると考えます。
“今”への絶望を是として、”未来”への絶望を回避する
前述の通り、人は絶望に向かって歩むことは難しいです。だから人は希望を見出しながら生き抜くための道を探します。若年期であれば周囲からサポートも得られやすいでしょう。一方、年齢を重ねるとともに”大人である(自らの人生に責任を負える)“ことを求められるため、サポートを得るのは難しくなります。そのため、若年期に「絶望を知らない」ことは将来におけるリスクといえます。若い内にスポーツ・学業・芸術・人間関係、あらゆるシーンで”今”に絶望する経験(挫折)を是とする方が教育として好ましいでしょう。
しかし、この絶望体験(挫折)の厄介なところは、強烈すぎるインパクトであった場合や、絶望が慢性化・常態化・内在化してしまうと「”未来”に絶望」してしまうことにあります。大人になっても、とある絶望体験が100%解消されることなく「こじらせている」方はあなたの身の回りにもいらっしゃるくらい、少なくないでしょう。しかし、未来に絶望してしまう方の最悪は、”死”の中に希望を見出しかねない点にあります。これだけは避けなければなりません。
いかなる絶望も基本的には、子ども本人の生存本能も合いまった形で、自ら立ち上がり、(失ったものではなく)残っているものに目を向けることのできる生き方(未来に希望を見出す生き方)を身につけていただきましょう。大人は、いざ子どもがいざその局面に瀕した際に、立ち向かえる環境づくりに日頃から従事します。見守る中で、うまく立ち上がれなかった時に初めて「大丈夫だよ」の一言とともに、手を差し伸べることや、浮き輪や杖など、必要なサポートをしてあげることが好ましいと考えます。
完璧ではなく最善を
「あの大学、あの会社に入れなくてはならない」、「グローバルな生き方ができるように」、「とにかくプロ選手にしたい」といった想いを抱くご家庭と接していたこともございます。ご自身の経験や、ご家族の成功パターンが原体験としてあるのかもしれません。また東京都や神奈川県では私立の小学校や中学校に受験する子が多いといった地域文化もあり、しがらみや葛藤も多くあることでしょう。
しかし、教育は”100%コントロールすることがそもそも不可能”です。未来は不測かつ、人間は不完全な存在で、ましてやそれは子ども(あなたではない人)への行為であるからして、完璧を目指す方程式を立てようがありません。もしも”不可能”が言いすぎであれば、”変数の範囲が大きすぎるため難易度が尋常じゃなく高い”ことは間違いありません。置かれた環境(ある程度の定数)を許容した上で、変数では完璧に近い最善を選択していくことが最適解ではないでしょうか。
ここからはサポーターたるあなたの肩のチカラが抜けるようにと願いながら、執拗なまでに「人間はそもそも完璧に設計されていない」ことを訴えて参ります。
フィクションの中で生きる私たち
突然ですが、人間(ホモ・サピエンス)は思いのほか、ポンコツです。かつて地球上には、ネアンデルタール人やホモ・フローレスなどを含む様々な生物が生息していました。しかし、私たちホモ・サピエンスが生き残ったのは”フィクション(虚構)”を信じることができたから、と言われています(「サピエンス全史」より)。
ホモ・サピエンスは「あそこには山の神がいる」や「あの集落にはクマと人のミックスがいる」といった、実しやかなフィクションを信じることができたことで、集落以外の人たちとも”同族”となりました。そのほかの種族はホモ・サピエンスと比して、腕力や知能は高かったとされるも「集団としての数」を築けずホモ・サピエンスに滅ぼされた、と語られています。
現代においても、変わらずフィクションの世界で生きています。通貨として信じられているものはいわば、紙切れです。国境線が敷かれているのは白地図の上でのことです(地表に線が引かれているものではありません)。しかし、私たちはそのフィクション、ある種のウソを信じながら生活を送っています。
人間は感情の生き物
人間の感情(情動)の内、愛すべき憎いものが「快楽(報酬系回路)」です。私たちはいったい何回ダイエットに失敗したらよいのでしょうか。買わなくてよいものを買い、見なくてよい動画にどれだけ時間を溶かしてきたことでしょう。思い出す必要もないほど、身に覚えがあるのです。「そんなことも必要だったのだ」と、幾度となく言い聞かせ後悔するも、それでも失敗を繰り返してしまうあの憎らしい記憶たちの原因こそ、快楽です。人間は論理で理解することはできても、感情に突き動かされてしまうのです。
完璧ではないから絶滅しない
“生物としての完璧とは”と、子ども達に問いかけてみると面白い回答が続出しそうです。不老不死や輪廻転生などの「死の超越」か、宇宙や深海、火山などあらゆる空間で生きることのできる「適応力」か、自身でエネルギーを生み出せる「身体システム」か、考えるたびにロマンが広がります。
人間に限らず、生物は完璧ではないがゆえに補完し合う関係を築いています(ここでは環境破壊問題は傍に置いておきます)。もしも人間が完璧になったとして、もしも遺伝子の突然変異や天変地異、ほかの種の台頭や、天敵ともいえるウイルスが発生した時、人間の完璧は崩れることとなります。その結果、今よりも絶滅する可能性が高くなることでしょう。なお、子どもに話せば「そんなピンチにも対応できるくらいの”完璧”だから大丈夫!」と返されてしまいそうですが、笑ってごまかすこととします。
“完璧ではない”ことは生存戦略ともいえるのです。
「完璧とは、絶望だよ」
漫画BLEACHに登場する科学者、涅マユリのセリフです。以下はセリフの一部抜粋です。
完璧なものなど存在しない。なればこそ凡人は完璧に憧れ、それを求める。
だが、完璧に何の意味がある。(中略)
そこには創造の余地はなく、知恵も才能も立ち入る隙がないということ。
科学者にとって”完璧とは、絶望”だよ。
今まで存在した何物よりも素晴らしくあれ。だが、けして完璧であるなかれ。
科学者とはその二律背反に苦しみ続け、更にそこに快楽を見出す生物でなければならない。
その後、凄惨なバトルシーンが続きますがここまでとします。
作中では科学者に限定されていますが、私たちの心をフッと軽くしてくれるヒントがあると私は感じました。完璧に憧れ、求めることは人間らしいこと。しかし、そんな完璧は存在せず、そもそも存在しなくてよいものです。まさに幻想ともいえる”完璧”に近づこうとするその歩みが、儚くとも、尊いのだと、私は思います。
サポーター目線
繰り返しとなりますが、これからを生きるのは「あなた」ではなく「子ども」です。仮にあなたの子どもであっても、あなたとは切り離された存在であり、文字通り”他人”です。
たしかに様々な背景に基づく教育方針をたてることや、親として子どもに不安や期待を抱くことは当然です。そして”完璧”に憧れる気持ちもまた人間らしく、共感できます。しかし残念ながら、教育の観点において子どもを完璧にコントロールすることはどうしても不可能なのです。そして、そもそも完璧な教育など存在する必要のないものであり、目の前にいる子どもに可能な限りの支援を施すことが人間にできる精一杯であり、それで十分であり、それがなによりも尊いことなのです。
次章以降も子どもの教育について、肩のチカラを抜いて一緒に考えていきましょう。