3-3 「恋愛」から考える教育

  • 2025/11/12
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日本の恋愛事情

「失われた30年」と呼ばれる不景気の中で育った、ゆとり(さとり)世代は所得の減少、趣味の多様化、交際費の減少も相まって、恋愛離れが加速しています。加えて、近年のコロナ禍において出会いの場は減少し、未婚率の上昇や晩婚化、そして出生率の減少が取り沙汰される今日を迎えています。人口減少が経済に及ぼす甚大な影響から、国の抱える課題としてクローズアップされています。

 

「恋愛をしなさい」

これは、私が大学生の頃にヒッチハイクで日本一周している際、何人ものドライバーさんが口をそろえて仰っていました。以下は拙著「一万円で日本を一周 ドライバー130人から教わったこと」からの抜粋です。


君はこの世界を愛に満ちた世界にしたいと望んでいるのに、人を愛することも人から愛されることも知らないんじゃ、話にならないじゃないか。

・・・でも焦ることはないよ。本心で望めば、必ずその人と巡り合える。そのことを信じてみなさい。


また、「20代にしておきたい17のこと」(本田健)では”死ぬほどの恋をしておくこと”が大切であると語られています。

私も未婚の若者(30歳)として、ゆとり(さとり)世代のひとりとして、自身の半生を振り返り、話のダシとするだけではなく、これまで手にした恋愛や結婚にまつわる書籍からの引用も交えながら、恋愛や結婚は必要なのか、そしてそれらが教育(未来に希望を見出す自立した大人に育てる行為)となりえるのか、考察していきます。

 

私のモテキは小学生

人生でこれほどもったいないことはありません。小6当時、身長は160cm、徒競走は学年一位、明るい性格で、学業成績も悪くはありませんでした。精神年齢もやや高めで、女の子との会話の方がマッチしていました。しかし、見た目や精神年齢とは裏腹に恋愛感情が芽生えるのはもっと後のことでした。人生は、うまくかみ合わないものです。

そして今はといえば、身長は166cmで止まり、スポーツも勉強も中途半端で特に高い能力がない一方、人にやさしくすることはできる、いわゆる”いい人”となりました。ちなみに、学生当時の精神年齢に関しては決して高かったわけではなく、生来”女々しい”がゆえに女の子の話に共感できていただけであると気づいたのはつい最近です。

 

女性と話せないという”キモチワルさ”

中高一貫男子校に進学し、思春期の6年間を異性との接点がない状態で過ごしました。そのため恋愛観は、少女漫画原作のTVドラマや市川拓司著の恋愛ファンタジー小説(「そのときは彼によろしく」、「いま、あいにゆきます」ほか)で育みました。おかげで、大学入学時には屈折した性の捉え方(手を繋ぐことは汚らわしいと認識など)をしており、女性には「”苗字+さん”」でないと声をかけられず、敬語を交えないと会話できないという”キモチワルさ”を抱えていました。

社会人以降になってようやく、女性とまともに交際できるようになりましたが、交際期間が半年を越えることはありませんでした。そして30歳を迎えた今「(もしかして)女性といっても、所詮は人間か」と、図々しくなることができました。

 

結局、自分が自分を好きじゃない

高校生の頃は自分に好意を向け続けてもらえないと不安になっていました。一方、社会人以降は「結婚」を提案されるほどハッキリとした好意を寄せていただくことがあったのにもかかわらず、”No”と言い続けてしまいました。

今思えばいずれの時期の私であっても、いくつものコンプレックスを抱えていました。それは学歴・身長・年収・女性経験の乏しさなど、幾重にも絡み合ったもので、まさに複雑の極みでした。

そのように自分でも解くことができなかったコンプレックスを、お付き合いしてくださった方々は、本当によく理解し、受け止めてくださっていました。今でも感謝の念は尽きません。しかし一方の私は、お相手と一緒に過ごす中で、ふと表出する自分の一面に、時に戸惑い、時にみじめに感じ、そのたびに自己嫌悪に苛まれ、それは徐々に相手への申し訳なさや、罪悪感となり、どんな方々との関係も終わりにせずにはいられませんでした。

あの時、もっと相手の話に耳を傾けられたのなら、もっと相手の気持ちの近くに自分を置けたのなら、なによりもっと自分の気持ちに素直になれたのなら、と悔やみ泣き腫らした夜は数え切れません。

 

“いい人”止まりは努力の問題

「いい人は誠意だけを武器にして逃げられる」これは潮凪洋介著の書籍からの一文です。本書では、「いい人」と「いい男」の違いについて、行ったり来たりの対比を繰り返しながら解説しており、「いい男」のひとつの要素として、”誠意”と”裏切り”のバランス(使い分け)が大切であると語っています。

また、二村ヒトシは著書の中で”モテない理由”として「自分について」考えていないことを挙げています。「”いい人”は意中の人の前でラブモード、エロモードに入れていない。その”照れ”が相手に伝染しているだけかもしれないが、それが相手にとって(恋愛においては)”キモチワルい”可能性がある」と指摘しています。

いわゆる”いい男”とは生来の人格ではなく、状態に近いものであり、思考の整理や技術の習得により後天的に獲得・更新していくものであると考えられます。

 

“恋愛”は難しい

「愛するということ」(エーリッヒ・フロム)より、”恋愛”の件では次のように述べられています。(藤田意訳抜粋)


友愛は対象の者同士の愛であり、母性愛は無力な者への愛である。対象が一人に限定されないという点において共通している。しかし、恋愛はひとりの人間としか完全に融合できないという意味においてのみ排他的である。

恋愛が愛と呼べる前提は、自分という存在の本質から愛し、相手の本質とかかわり合う、ということである。

(人間の)本質においては、全ての人間は同一であり、だれを愛するかなどは問題ではないはずである。そして愛の本質も、意思に基づいた行為であり、当事者ふたりが誰であるかは基本的に問題ではない。

しかし、人間の本性も恋愛もパラドックスに満ちていて、私たちは皆絶対者という「一者」でありながら唯一無二であり、他人との関係においても私たちはひとつなのである。友愛においてはすべての人を同じように愛すると同時に、恋愛においては必ずしも全員には見られないような特殊な個人的な要素が重要になってくる。


恋愛は、前章でも紹介した「愛する」ことがベースにありながらも、友愛と親子愛の比較から”対象が限定的”であることに違いがあります。また、”人間”と”恋愛”がパラドックスを抱えていることから、強い決意をもって誰かと付き合うことも、うまくいかない時に別れを選択することも、いずれの行動であっても、それは是であり、非であるといえます。

従って恋愛は、対象の問題ではない一方、対象が限定的であるというパラドックスに悩まされる構図となり、難易度のある行為といえます。

 

「困難な結婚」

新卒当時、恋愛で困り果てた私の失敗談を笑いの種に変え続けてくださったのは、塾講師時代の上司であり国語科の先生でした。その先生にオススメしていただいた書籍が「困難な結婚」(内田樹)でした。恋愛や結婚について次のように述べられています(藤田抜粋意訳)。


【恋愛】

・”もっといい人”は現れない

・“消費”で考えるうちは相手のスペックにこだわる

・高度なスペックも家で披露すると暴力となりかねない

(優秀さを押し付けられては敵わない、の意)

・倦怠とは、自分自身への飽きであり、対象(相手)の問題ではない

【結婚】

・(人はそもそも、ひとりを愛し続けるように設計されていない点から)

科学と信仰を越えた神秘

・配偶者のことは”よく分からない”がデフォルト

・幸せのブーストではなく、セーフティネットである

(病気と貧困というアンハッピーに耐えるチカラ、危機耐性の増加)

・式とは、神をも呼び出し、結婚を公のものとするための”誓い”である


やはり恋愛は対象の問題ではなく、自身の問題であるとしています。また結婚は、(自己実現ではなく)セーフティネットたる生存戦略であり、人生を生き抜くためのひとつの手段でしかないということを、時にシニカルな筆舌で、心地よく読者の余計な肩の力を削ぐように語っています。もちろん、恋愛や結婚に対する絶対解ではなく、ある種の哲学がここにまとめられています。

 

『都合のいい相手よりも、ともに歩みたい相手』

学校の先生が恋愛やジェンダーについて語ることはあまり目にしませんが、「正解がない時代の親たちへ-名門校の先生たちからのアドバイス-【エッセンシャル版】」(おおたとしまさ)の106ページには次のように記されています。


「男女ではなくてひと同士という観点に立つべきなんです。(中略)男だからこうするとか、女だからこうしなきゃじゃなくて。結婚して、子どももいて、立派な仕事をして、出世して…という自分の自己実現のために都合のいい相手を選ぶのではなくて。結局はひと同士の問題なんですよ。だから人生のパートナーは男女に限らず、男男でもいいし女女でもいい。 生徒達には『1回はパートナーと一緒に暮らしてみたら?』って言いますよ。(中略)とりあえず一回はそういう経験をすると、やっぱり人生は自分だけのものじゃないことに気づけますからね」(吉祥女子・綾部先生)


人間的な成長の糧として誰かと”共に暮らす”ことをご提案されています。必ずしも同性に限らない点はもちろん、同棲や婚姻関係を結んでいなくてもよいニュアンスも汲み取れます。”パートナーシップを結ぶことの有用性”を学ぶ機会として、恋愛や結婚を考える視点がここにあります。

 

「恋愛」とは

恋愛は、誰と付き合うかといった対象の問題ではない一方、限定的な対象を必要とするパラドックスから難易度のある行為といえます。

恋愛をする前提には、”自身を愛する”ことがあり、それはお相手だけでなく、(お相手と一緒に過ごす中で)表出する自分と付き合い続ける覚悟が必要であることを意味しています。

対象については、男同士でも、女同士でも構いません。相手から対象を限定してもらうためのチカラ(モテるチカラ)は、恋愛における思考の整理や、技術を後天的に獲得・更新することで得ることができます。

同棲や婚姻は、恋愛における一つの形態、いわば方法論でしかなく本質は”一緒に生活をすること”で人間的成長が見込める点にあります。この際「他人のことなど”分からない”」ことがデフォルトであり、相手に求めすぎないことが円満の秘訣のように感じられます。

また、婚姻関係は自己実現ではなく、セーフティネットの役割を果たすものであり、相互扶助の安全を保障するための社会契約と考えることも一案です。

 

「恋愛」から考える教育

教育の観点から、恋愛がマストであるとはいえません。恋愛自体が難易度の高い行為であり、指南することもまた難しくあるためです。しかし、実体験に即して考えてみると、社会で生き抜くために必要なチカラを育む機会となっています。

「解けなかったコンプレックス」=自己愛、自己肯定、自己有能感

「もっと相手の話に耳を傾けられたのなら」=傾聴力

「もっと相手の気持ちの近くに自分を置けたのなら」=共感力

「もっと自分の気持ちに素直になれていたのなら」=自己開示性

これらは徒競走で一番であることや、身長が高いことなど、数値化しやすい”認知能力”ではなく、人柄や人間性といった”非認知能力”にあたるチカラです。これらのチカラを芸術やスポーツで育むことも一定レベル可能ですが、完全に代替できるものではありません。

恋愛を教育の機会として促す際には、(当人も、お相手も)どうか”爽やかな人であれ”と願い、”自分と向き合うのって結構ツラいかもよ”と、痛みの予防線を張ってあげる程度として、”一度は誰かと生活を共にしてみると良いよ”と背中を押してあげることがちょうどよいのではと考えます。